
| 神経を伝わる電気信号 / 色も音もない自然界 / 厄介なこと? / 人間の意識での変換前の世界 / 理論物理学者の藻掻き? / 新しい自然観と世界観 / リンゴは木から落ちていない? / |
「素晴らしい自然の風景に心奪われ、かぐわしい花の香りと、小鳥のさえずり、あたたかな日差しと心地よい微風、キラキラ輝く岩清水は冷たく甘く・・・。」自然を体いっぱいに感じるまさに至福のひと時です。
深紅のバラがそこにあるのではなく、そこにあるのは、我々が頭の中で「赤」と認識するきっかけとなる特定の周波数の電磁波を反射する(何か)があるだけなのです。人によっては、それは赤でなく緑色のこともあるのです。甘いバラの香りがその深紅のバラからするのではなく、我々が頭の中で「甘いバラの香り」と感じるきっかけとなる(何か)が、そこにあるだけのことなのです。
「私の身体」と言っても、今見えている私の姿が本来の姿でないとしたら、「私の身体」ひいては「私」の存在そのものを、一体どう捉えたらよいのでしょうか。「私の手・指・足・脳・心臓・胃・大腸」に、形や色がないと言うのなら、どんなものになるというのでしょうか。目の前にある電話やパソコンや本は何だというのでしょうか。飛行機が飛んでいると言うことはどういうことになるのでしょうか。学校の物理や化学の授業で習った化学式や分子は、原子核や陽子や中性子や電子は一体どうなってしまうのでしょうか。タンパク質はDNAは・・・。空間が無いと言われたら、地球や月や太陽や宇宙の存在はどう考えればよいのか。時間が無い世界と言われても、過去や未来が無いということは・・・。何となく気味が悪く、いやな気分にさせられる、そんな厄介さなのです。 ところで私たちにとっては厄介なこの問題も、一部の理論物理学者にとっては別に厄介ではなさそうなのです。私は理論物理が専門でないので確かなことは言えませんが、相対性理論や量子論を眺める限りでは、どうやらその新しい世界の扉を開けつつあると言えるのではないでしょうか。まだまだ意識での変換後の世界観に足を引きずられ、藻掻き苦しんでいるかの様にも見えますが、それは、変換後の世界観にどっぷりと浸かっている、私たちに理解させるための藻掻きであって、ご本人たちは、既にこの世界観を視野に入れているのではないかと思われます。
彼らの間では、日常の世界観から現象の本質を突き詰めていく過程で、自明の理と安心していた物の存在が、実は非常に曖昧な存在になってきたことや、時間や空間が絶対的なものでないということ、さらには現象との客観性を確保していたつもりが、自らが客観性の主体になっていたことに気付くなど、日常の世界観の感覚とはかけ離れた様々な現象に突き当たり、自らその世界観の変換を求められることとなり、従来の世界観と、新しい世界観との狭間で藻掻き、楽しんでいる(=苦しんではいないはずです)のが、現在の彼らの姿なのではないでしょうか。
一方、私たちの側(もちろん理論物理学者でも同じですが)では、私たちの意識の基本要素である経験や体験の記憶が、意識での変換後の四次元の世界(=目の前に広がる3次元の世界と、時の流れ)の記憶である以上、私たちが現象を理解したり記述したりするためには、四次元の印象として記述したり理解するしか方法がなく、当然、数学的な表現としても、そのことが要求されてくることになります。
そのため、たとえ変換前の世界の秩序や法則を新しく数式として発見したとしても、そのままでは表現できず、変換後の四次元の世界の現象として数学的に表現するため、より複雑な数学的操作を行わざるを得なくなります。
その結果、このことが、普段、高度な数学的表現に馴染みのない私たちにとって、理論物理学者とのコミュニケーションを隔てる大いなる壁となって、私たちの前に立ちはだかり、私たちを自信喪失(頭が悪いと)にさせ、親切で誠実な理論物理学者の頭を悩ませる最大の原因となっているのです。この辺で、私たちも四次元の世界へのこだわりを捨て、親切で誠実な理論物理学者の負担を軽くしてあげてはどうでしょうか。
理解しがたい厄介だとは言っても、何かとんでもないことが起こる訳ではありません。『私たちが慣れ親しんできた世界とは別に、私たちの意識での変換前の世界が存在する』ということ、そしてその世界は、『色も、形も、においも、音も、肌触りも、味もない世界』であり、今まで、『私たちの外に厳然と存在すると思っていた世界が、実は私たちの内側の世界で、私たちの外にある世界は、私たちが今まで理解してきた現象や、法則とは、全く別の秩序や、法則を持つ世界である』ということを、受け入れるだけのことなのです。
過去において、私たちが天動説から地動説への世界観の変換を経験したように、今また、第二の自然観、世界観の変換を受け入れる時期が来ているというだけのことなのです。(繰り返しになりますが、だからと言って、私たちの日常生活が何も変わるわけではありません。天動説から地動説に代わったからと言っても、相変わらず、太陽は東から昇り、西に沈んでいるのです。)
このことは、私たちが理解できる自然現象の範囲を一気に広げてくれるに相違ありません。新しい自然観に基づき、意識で変換される前の秩序や法則を発見、解明することができれば、今はまだ、SFドラマの世界の話でしかない「テレポーテーション」や「タイムマシン」が、時間や空間に制約されない技術として、私たちの前に登場してくるに違いありません。
また、今まで現象はありながら、「科学的に荒唐無稽」の一言で、頭から否定されてきた様々な現象についても(=実に多くのことが否定されています。特に人間の生命や意識がかかわる現象については)、その理論的な背景が検証され、私たちの前に、装いも新たに登場することになるはずです。
我々が今、解明しようと、藻掻き楽しんでいる(?)PRAの原理解明についても同様で、必ずや解明の糸口となる秩序や法則の発見があり、我々に求められている科学的な根拠に基づいての説明が可能になる日も近いと期待します。
最後にもう一つ、「物質」や「空間」や「時間」が無いとなったら、例えば、ニュートンが引力を発見するきっかけとなった、リンゴが木から落ちる逸話は、一体どうなるのでしょうか。ここまで読んでいただいた方ならご理解いただけると思いますが、少し乱暴な言い方をすれば、リンゴは木から落ちていないのです。リンゴが落ちたと私たちに見えているだけのことなのです。それぞれリンゴや木や地面と見える何らかの秩序(私たちは非物性秩序と呼んでいます)の間で相互作用が起き、その結果が、私たちには「リンゴが木から落ちた」と見えているだけのことなのです。
如何でしょうか。ご納得いただけたでしょうか?