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「素晴らしい自然の風景に心奪われ、かぐわしい花の香りと、小鳥のさえずり、あたたかな日差しと心地よい微風、キラキラ輝く岩清水は冷たく甘く・・・。」自然を体いっぱいに感じるまさに至福のひと時です。
 一方、この感動を神経生理学的(?)に表現すると、「可視光線(電磁波)の反射が、その受容器としての錐体細胞、カン体細胞を刺激、発生した電気インパルス信号が視神経細胞を通じて大脳皮質に伝わる現象」「空気中にある揮発性のにおい分子が、嗅細胞の嗅線毛のにおい分子受容タンパクと結合し、嗅細胞の膜電位の変化を引き起こし、嗅神経への電気インパルスを発生、嗅球、梨状葉へと伝わる現象」「空気の振動が鼓膜を振動させ、耳小骨から内耳、前庭窓、蝸牛管と振動が伝わり、コルチ器で電気信号に変換、電気インパルスが聴神経から大脳の聴覚中枢に伝わる現象」等々となり、全ては神経を伝わる電気インパルスの電気信号に変換されてしまい、感動も何もない記述となってしまいます。
 しかしこれが現実であり、私たちが好むと好まざるとに関わらず、これが事実であることは、少し身体のことを勉強された人であれば、認めざるを得ないことは言うまでもありません。そして、この味も素っ気もない話をさらに吟味してみると、今までと全く異なる、もっと味も素っ気もない世界が観えてくることになります。





 私たちは何の疑いもなく、私たちの目に映る世界が、そのまま私たちの外に存在していると考えていますが、本当にそうなのでしょうか。私たちが見たり感じたりしているこの世界は、外部からの物理的な刺激をきっかけに、それぞれの神経細胞により入力された電気信号にもとづいて、私たちの頭の中で造り出された世界であって、私たちがいる本来の世界は、「きっかけとなる物理的な刺激が発生する何らかの秩序の世界」であり、私たちが見たり感じたりする「景色や、香りや、鳥の声や、暖かさや、美味しさ」が、そのままに存在しているのではないのです。
 深紅のバラがそこにあるのではなく、そこにあるのは、我々が頭の中で「赤」と認識するきっかけとなる特定の周波数の電磁波を反射する(何か)があるだけなのです。人によっては、それは赤でなく緑色のこともあるのです。甘いバラの香りがその深紅のバラからするのではなく、我々が頭の中で「甘いバラの香り」と感じるきっかけとなる(何か)が、そこにあるだけのことなのです。
 私たちが存在する世界は、私たちが見ている、感じている世界がそのまま存在しているのではありません。私たち自身の存在(身体)も含めて、私たちに、このように見える、感じさせる原因となる(何か)が存在する世界なのです。まさにオーストラリアの神経生理学者のジョン・エクルス卿(
Sir John Eccles・ノーベル生理学賞)が言う「自然界には色も音もないことに気がついてもらいたい。その種のものは何もないのだ。肌理も、模様も、美も、香りも」なのです。あまり納得したい話ではありませんが、よくよく考えればそうなのだから仕方がありません。
 ただ、それを認めたからといって、私たちの生活に何の変化があるわけでもありません。相変わらずバラは美しく、その甘い香りに心ときめかせ、ショパンのピアノの調べは心に響き、肥満を気にしながら食べるイチゴのショートケーキは美味しく、そよ風は頬に心地よい。今まで通りの世界がそこにあり、何も変わりがありません。





 変わりがないのなら何も味も素っ気もないことを、ことさらに取り上げる必要は無いのではないかと言われそうですが、確かに普通に日常生活を送っている分には意味はないのですが、ひとたび身の回りに起こる現象の原因に目を向けようとした時には、少し厄介なことになってきます。
 身の回りで起こる現象、自然現象を解明しようとしたときに、私たちは今までどちらの自然現象を解明しようとしてきたのでしょうか。「色や、形や、においや、音や、肌触りや、味の有る世界」なのでしょうか、それとも今、観てきたように「色も、形も、においも、音も、肌触りも、味も無い世界」なのでしょうか。
 それは考えるまでもなく、「色や、形や、においや、音や、肌触りや、味の有る世界」が対象となってきたのであり、私たちはこれらの世界を理解したいと考え、因果関係を解明したいと願ってきたのです。これは有史以来の人類の悲願といえます。もっとも、近代科学は、実際に目に見える見えない、耳に聞こえる聞こえないにかかわりなく、あらゆる現象を対象としていますが、その基となる世界観が、「色や、形や、においや、音や、肌触りや、味の有る世界」を前提とした世界観である以上、同様であると言えます。 しかし、果たしてこれはこのままでよいのでしょうか?自然現象を解明しようとしながら、自然の実像である「色も、形も、においも、音も、肌触りも、味も無い世界」を直接に対象とせず、私たちの頭の中で認知された自然像を対象に、その解明に取り組んでいても支障はないのでしょうか?
 色や形が無いということは、私たちが考えている「物質」は存在しないということであり、物質が存在しないということは、物質と物質の間の「空間」も存在しないということであり、空間が存在しないということは、空間を移動する「時間」も存在しないということになります。「物質」や「空間」や「時間」が無い世界とは、一体どんな世界なのでしょうか?そこにどんな理論が打ち立てられるというのでしょうか?
 自然現象の因果関係を解明しようとしていながら、自然の実像の世界を直接対象とせずに、私たちの頭の中で認知された現象をいくら精緻に解読しようとしても、私たちに見えてくるのは、頭の中で認知された結果の連続でしかなく、決して現象の因果関係の本質は見えてこないのですが、それでいいのでしょうか?
  厄介なことだと思われないでしょうか?





 ただ厄介だとは言っても、今までやってきたことが間違っていたり、意味がないといっているのではありません。「色や、形や、においや、音や、肌触りや、味のある世界」(=長くて面倒なので、それぞれを人間の意識での変換前の世界と、変換後の世界と表現します)、つまり変換後の世界での現象の描写としては充分な整合性があり、その整合性の発見により、私たち人類は現在の文明を手にすることが出来たのです。
 何度も言うようですが、厄介なのは、私たちが今まで私たちの外の世界に厳然と存在していると、何の疑いもなく思っていたこの世界が、実は私たちが、外からの刺激に基づいて、自らの頭の中で造り上げていただけの世界であり、私たちの外にある世界は、私たちが全く想像もしていなかった世界(認知できない以上、将来も想像できるかどうか分かりませんが)であるということなのです。
 「私の身体」と言っても、今見えている私の姿が本来の姿でないとしたら、「私の身体」ひいては「私」の存在そのものを、一体どう捉えたらよいのでしょうか。「私の手・指・足・脳・心臓・胃・大腸」に、形や色がないと言うのなら、どんなものになるというのでしょうか。目の前にある電話やパソコンや本は何だというのでしょうか。飛行機が飛んでいると言うことはどういうことになるのでしょうか。学校の物理や化学の授業で習った化学式や分子は、原子核や陽子や中性子や電子は一体どうなってしまうのでしょうか。タンパク質はDNAは・・・。空間が無いと言われたら、地球や月や太陽や宇宙の存在はどう考えればよいのか。時間が無い世界と言われても、過去や未来が無いということは・・・。何となく気味が悪く、いやな気分にさせられる、そんな厄介さなのです。





 ところで私たちにとっては厄介なこの問題も、一部の理論物理学者にとっては別に厄介ではなさそうなのです。私は理論物理が専門でないので確かなことは言えませんが、相対性理論や量子論を眺める限りでは、どうやらその新しい世界の扉を開けつつあると言えるのではないでしょうか。まだまだ意識での変換後の世界観に足を引きずられ、藻掻き苦しんでいるかの様にも見えますが、それは、変換後の世界観にどっぷりと浸かっている、私たちに理解させるための藻掻きであって、ご本人たちは、既にこの世界観を視野に入れているのではないかと思われます。
 彼らの間では、日常の世界観から現象の本質を突き詰めていく過程で、自明の理と安心していた物の存在が、実は非常に曖昧な存在になってきたことや、時間や空間が絶対的なものでないということ、さらには現象との客観性を確保していたつもりが、自らが客観性の主体になっていたことに気付くなど、日常の世界観の感覚とはかけ離れた様々な現象に突き当たり、自らその世界観の変換を求められることとなり、従来の世界観と、新しい世界観との狭間で藻掻き、楽しんでいる(=苦しんではいないはずです)のが、現在の彼らの姿なのではないでしょうか。
 一方、私たちの側(もちろん理論物理学者でも同じですが)では、私たちの意識の基本要素である経験や体験の記憶が、意識での変換後の四次元の世界(=目の前に広がる3次元の世界と、時の流れ)の記憶である以上、私たちが現象を理解したり記述したりするためには、四次元の印象として記述したり理解するしか方法がなく、当然、数学的な表現としても、そのことが要求されてくることになります。
 そのため、たとえ変換前の世界の秩序や法則を新しく数式として発見したとしても、そのままでは表現できず、変換後の四次元の世界の現象として数学的に表現するため、より複雑な数学的操作を行わざるを得なくなります。
 その結果、このことが、普段、高度な数学的表現に馴染みのない私たちにとって、理論物理学者とのコミュニケーションを隔てる大いなる壁となって、私たちの前に立ちはだかり、私たちを自信喪失(頭が悪いと)にさせ、親切で誠実な理論物理学者の頭を悩ませる最大の原因となっているのです。この辺で、私たちも四次元の世界へのこだわりを捨て、親切で誠実な理論物理学者の負担を軽くしてあげてはどうでしょうか。






 理解しがたい厄介だとは言っても、何かとんでもないことが起こる訳ではありません。『私たちが慣れ親しんできた世界とは別に、私たちの意識での変換前の世界が存在する』ということ、そしてその世界は、『色も、形も、においも、音も、肌触りも、味もない世界』であり、今まで、『私たちの外に厳然と存在すると思っていた世界が、実は私たちの内側の世界で、私たちの外にある世界は、私たちが今まで理解してきた現象や、法則とは、全く別の秩序や、法則を持つ世界である』ということを、受け入れるだけのことなのです。
 過去において、私たちが天動説から地動説への世界観の変換を経験したように、今また、第二の自然観、世界観の変換を受け入れる時期が来ているというだけのことなのです。(繰り返しになりますが、だからと言って、私たちの日常生活が何も変わるわけではありません。天動説から地動説に代わったからと言っても、相変わらず、太陽は東から昇り、西に沈んでいるのです。)
 このことは、私たちが理解できる自然現象の範囲を一気に広げてくれるに相違ありません。新しい自然観に基づき、意識で変換される前の秩序や法則を発見、解明することができれば、今はまだ、SFドラマの世界の話でしかない「テレポーテーション」や「タイムマシン」が、時間や空間に制約されない技術として、私たちの前に登場してくるに違いありません。
 また、今まで現象はありながら、「科学的に荒唐無稽」の一言で、頭から否定されてきた様々な現象についても(=実に多くのことが否定されています。特に人間の生命や意識がかかわる現象については)、その理論的な背景が検証され、私たちの前に、装いも新たに登場することになるはずです。
 我々が今、解明しようと、藻掻き楽しんでいる(?)PRAの原理解明についても同様で、必ずや解明の糸口となる秩序や法則の発見があり、我々に求められている科学的な根拠に基づいての説明が可能になる日も近いと期待します。






最後にもう一つ、「物質」や「空間」や「時間」が無いとなったら、例えば、ニュートンが引力を発見するきっかけとなった、リンゴが木から落ちる逸話は、一体どうなるのでしょうか。ここまで読んでいただいた方ならご理解いただけると思いますが、少し乱暴な言い方をすれば、リンゴは木から落ちていないのです。リンゴが落ちたと私たちに見えているだけのことなのです。それぞれリンゴや木や地面と見える何らかの秩序(私たちは非物性秩序と呼んでいます)の間で相互作用が起き、その結果が、私たちには「リンゴが木から落ちた」と見えているだけのことなのです。
 如何でしょうか。ご納得いただけたでしょうか?

リンゴが木から落ちた?
アイザック ニュートン




バナースペース




PRA装置理解のために





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